「自分なくし」と、『門』再読。
以前、ラジオでみうらじゅんが、
5年かかって『アウトドア般若心経』を
やっと完成させたという話をしてて、
(街中で文字をかき集め般若心経を完成させる。文字の使い回しは不可。)
自分、仏教のことなにも知らないな......
でも、さすがに教典読むのはハードすぎる......
と思いまして、
手塚治虫先生作『ブッダ』と迷った末、
佐藤家の本棚には余裕がないので、
こっちにしました。
(漫画って、すごい場所とられますよね)
前半の、氏の生い立ち→いかにして仏像マニアになっていったのかというくだりは、
あんまりおもしろくないのですが、
後半の、みうらじゅん的仏教観が繰り広げられるところは、非常に納得できたし、おもしろかったです。
諸行無常だし、諸法無我なんだから、
「自分探し」などしても見つかるわけがない。
そんなことより「人のご機嫌をとる」修行をして、
「自分なくし」を目指したほうが、
よりよく生きられるぜ。
、、、というようなことを、
お釈迦さま(とボブディラン)は説いているのではないか、的なことが書いています。
(文字量ぜんぜんない&Q数でかめなので、
詳しくは本書をご覧ください。)
......で、読み終わって、
そういえば、以前「漱石流の自分探し」だと書いたことあるな、と思い出しまして、『門』再読。
買い直すべきかな。表紙もどっかいっちゃいました。
佐藤は、この、
絶望もないけど希望もない、結局なにも解決しないまま、なし崩しに老いていく夫婦の話を、ことある毎に読むのですが、
宗助も参禅しに行ったところで、
自分が「かえって迂闊に山の中へ迷い込んだ愚物」であり、「門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人」だと気付かされただけで、
自分を証明するために(←佐藤の独自解釈)友人の妻を奪ったものの、結局、自分の存在の小ささを痛感するだけなんですよね。
「自分探し」なんてしたって、
なんにも見つかるわけがない!
だって、旅人でおなじみ 中田英寿が
「自分」を見つけたようには見えないし!
それより、武田修宏とか前園真聖のほうが、
自分のいるべきポジションを見極めて、
がんばってる感じがする。
武田なんて、サッカー選手で全然関係ないのに、
石田純一を脅かす存在にすらなってるし。
「こうだったらいいのに...」
「ああいう仕事のやり方、かっこいいな...」
そんな煩悩をかなぐり捨てて、
目の前の仕事を真剣にこなすのだ!
がむしゃらに向き合うことで、
辿り着ける場所がある!
......と、
テレビに出ていた前園を見て、
気持ちを新たにした佐藤なのでした。
佐藤家の平野甲賀作「般若心経」。(直筆サイン入り)
祖父江慎との対談で、
「無」を一つずつ書き分けるのに大変苦労したと
おっしゃっていた平野氏。
そういえばみうらじゅんも、
『アウトドア般若心経』で苦労したのが
「無」だと言ってたな。
般若心経の中でも登場回数が多い、
かつ、街で探そうとすると
中々見つからない文字のようで、
その時についた、無煙焼き肉を探すクセが
抜けないらしいです。
ちなみに「若」の字は、
『ちゃんこダイニング若』だそう。